森博嗣「百年シリーズ」3部作読了

1月某日、森博嗣の「百年シリーズ」全3作を読了する。2作目までは主人公のサエバ・ミチルと相棒のウォーカロン(自律型ヒューマノイド)のロイディによる冒険譚で、100年後の近未来設定のSFかつファンタジー要素が強い物語。

ミステリーとして考察をしながら読み進める要素はあるけれど、事件の真相を追求するという表面的な内容よりも、死生観や人間とは何か「我思う、故に我在り」(仏: Je pense, donc je suis)という哲学的なテーマにも重きをおいて全編を通し描かれているような印象。しかし、あくまで冒険譚という形をとっているので、物語として読みやすくNHK-FMでラジオドラマ化もされたようだ。

問題はシリーズ最終作となる3作目。前作までのキャラクターは主人公を含めて登場せず(少なくとも表面的には)、登場人物の視点がどんどん時空をも超えて切り替わっていくスタイルで、一見すると「何を読まされているのか」分からなくなる。森曰く、幻想小説のつもりで書いた作品とのことだが、作者の壮大な思考実験に付き合いながららトレースし同化していく、いわば読者が「ついてこれるかな」と試される1冊になっている。シリーズとして成り立っているのかどうか、については、作者が伝えたい「モチーフ」としての統一感はあるかも、と、ぎりぎりぼくの思考能力でも何とか思えるので、これが一つのまとまったシリーズであると規定されればそうなのだろう、という感じ。いやいや、ほんと難解。

今自分が生きていると感じている「現実」は果たして本当に現実なのか、そこに疑うべき点は一つもないのだろうか、という問いを究極的には読者に突き付けているような感じがする。作中で描かれている設定が「物語としての作者の幻想」ではなく「真実・真理」だと誰かに提示された場合、「絶対にありえない」と100%否定しうる論理的思考能力をぼくは持ち合わせていない。

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